135:給食2

 アメリカ製小麦のコッペパンは食べることができた。でも残して持って帰るようにという母の指示があったので、ほとんど食べずに給食袋に入れた。私の食べ方がのろくて給食の時間内に食べ終わらないことを母は分かっていたのだ。何をするのも遅い私を心配して、母はクラス替えのたびに担任への提出書類に「動作がのろい」と書いていた。特に食べるのに時間がかかる。食べ物を飲み込まずに自然に食道に入るまでかみ続けるためである。私の息女も幼児期そうだった。離乳食を食べさせている最中に眠ってしまって、彼女の口の中に残っているかみさしの食べ物を指でかき出したことが何度もある。かみ続けているうちに疲れて寝入ってしまう。彼女は小学校高学年まで錠剤を飲むのも苦手だった。一緒に口に入れた水だけを飲んで、錠剤は喉に残っている。でも給食のパンを持ち帰ることはめったになかったから、私よりはマシだったのだろう。私は高校生になっても医師に飲み薬より注射を要望した。息男・夫・母は正反対で、かまずに流し込むように食べるので、食事がすこぶる速い。パンを残す私に小野先生がある日気付き、「全部食べなさい」と言った。言われた通り食べ始めると、給食の時間が終わっても、皆が下校の準備をし終わっても、まだ食べ終わらない。クラスの皆を散々待たせることになった。さすがに小野先生も、「あしたからは全部食べんでもええよ」と妥協した。
 2年か3年のときに、私のコッペパンからタイルが出てくる事件が起きた。パンの焼き釜の壁に貼られていたものなのか、パンの直径より少し短い対角線の大きさの正方形のタイルだった。パンだけはおいしく食べていたのに、この事件でしばらくの間パンも食べられなくなった。内気な私はタイルについて級友の誰にも話さなかった。担任にも多分報告しなかったと思う。報告しても当時は今ほど衛生観念が高くなく、責任の所在を追及するようなおおごとになることもなかっただろう。

134:給食1

 学校給食法が施行されたのは1954年(昭和29年)6月だそうだが、53年に私が入学したとき、K小学校はすでに給食を実施していた。戦後の食糧難対策として、都市部の小学校では早くから給食を始めていたようだ。ユニセフから脱脂粉乳の寄贈を受けたり、アメリカから補助金をもらったりしていたと聞く。アメリカ産小麦で作られたコッペパンを毎昼食べて育った私達は、アメリカの思うつぼにはまった。育児を通して日本人の米離れを引き起こしてしまい、毎年アメリカから大量の小麦を買う現状をもたらすこととなった。
 入学後少したって給食が始まると、通学時の持ち物はランドセルと草履袋(上履き入れ)に給食袋が加わった。草履袋は市販のものだが、給食袋は親の手作りである。プラスチック製の食器を入れて、長いひもを肩から斜めに掛ける。ちなみにランドセルには30㎝の竹製の物差しを立てて入れることになっていた。物差しの方がランドセルより長いのでふたからはみ出させておく。教科書やノートは時間割に合わせて毎日入れ替えるのに、なぜか物差しはいつも持っていかねばならない。
 多くの小学生にとって給食と体育が学校で最も楽しい時間だろう。私の息男もそうだった。でも私にとっては2大苦痛の時間だった。体を動かすことが嫌いな上に、運動能力ゼロで劣等感にさいなまれる体育。給食はまずくて食べられない。偏食の母の手料理に慣れた私の口は、食材も味付けも全く異なる給食を受け付けなかった。野菜嫌いの母が使う野菜は種類が限られていて、給食では見たこともない野菜が変な味に煮込まれている。おからもよく出た。安いタンパク源で重宝だったのだろう。肉は硬い鯨肉。牛肉中心の洋食っぽい料理が多い我が家と全然違う。脱脂粉乳もまずくて飲めない。今思うに、脱脂粉乳に添加されていた甘味料と生ぬるい温度が嫌だったのかも。おかずや脱脂粉乳がブリキのバケツに入っているのも食欲を減退させた。雑巾用のバケツを連想して気持ちが悪い。6年生のときに脱脂粉乳から牛乳に替わったが、瓶入りではなく、バケツからおたまじゃくしですくう方式のままだったので、顔をしかめながら飲んだ。家では大好きでがぶ飲みするのに。当時の給食は結構嫌いな子供も多く、私ほどの拒絶反応は珍しいとしても、おかずや脱脂粉乳を残す子が大勢いた。小学校を卒業して十数年後に小学校と中学校の教壇に立つ機会があり、給食に再会したら格段においしくなっていて驚いた。鯨肉は捕鯨問題が深刻化したせいか一度も出ない。毎回完食し、高校勤務時代と違って弁当を用意せずにすむことに感謝した。

133:誕生日

 電車に関してもう一つ。何の教科の時間か忘れたが、先生が12両の客車とそれを引っ張る機関車の絵を黒板いっぱいに大きく描いたことがある。前の客車から順に、『1月』、『2月』と、『12月』まで書いた。「自分のお誕生日の車両に、名前を入れましょう」と先生が言った。私は自分の誕生日がいつか知らなかった。クラスの皆も知らないだろうに、座席を立って黒板にどんどん書き入れていくのを見て、私も黒板に近づき、一番良さそうに感じる1月の車両に『なかざわきりこ』と書いた。黒板の記入を確認していた先生が、「キリコちゃん、違うでしょう! キリコちゃんは3月やないの!」 私以外に叱られた子はほとんどいないようで、皆私のように適当に書いたのではなく、自分の誕生日を覚えていることに驚いた。
 小野先生から教わって、3月21日だとこのときしっかり覚えた。春分の日で国民の祝日であることもまもなく知った。当時はどの家も祝日に旗を門に掲げたので、『旗日[はたび]』ともいう。天皇誕生日と同等に国旗を掲揚する日なのだ! 春分の日は昼と夜の長さが同じ日だから年によって日が異なり、最近は3月20日のことも多いが、12歳の1959年(昭和34年)まではいつも21日だった。以後も91年(平成3年)までうるう年以外は21日だった。春分の日は日本だけの出来事ではない。世界中で昼と夜の長さが同じになるのだ! 私は自分の誕生日に根拠のない誇りを持ち、高校1年生のときクラス回覧のノートに、「私の好きな季節は春です。生の躍動を感じる春の中でも真っ盛りの日は春分の日です。私はその春分の日に生まれました」というような内容のナルシシスティックな文を書いたくらいである。年齢に2種類あることも知った。誕生日に年を取る満年齢と、正月に年を取る数え年。1月~4月1日生まれは同学年の4月2日~12月生まれより数え年が1年下であることなど、たちまち同級生より詳しくなった。

132:社会

 社会の授業では、教室で大恥をかいたことがある。「電車と自動車は、どっちの方が速いですか?」と小野先生が皆に質問して、私は手を挙げていないのに私を指名した。教室で発言するのが恥ずかしく、答えが分かっても滅多に手を挙げない子供だったから、私に発言の機会を与えようとしてくれたのだろうが、乗り物にも速さにも興味のない私は、どっちが速いか見当もつかない。とにかく答えなくてはいけないと思って、「自動車」と言った途端に男の子達から「ええ!」と非難の嵐が起きた。先生が、「自動車かて思い切り走ったら速いねんよ」とその場を収めてくれた。私は恥ずかしくて固まってしまった。
 女児と男児で乗り物に対する関心度が全く違うことを、息男が生まれて初めて知った。幼児期の息男は盆のような円い物を見つけるとすぐに自動車のハンドルに見立て、左右に回して運転し始める。ブロックで作る物もほとんど乗り物だ。2歳のときにおもちゃの電車とレール一式を私の母からもらって大喜びした。性にとらわれずに可能性を広げたいと考える私は息男に人形も買い与えたが、さっぱり興味を示さなかった。彼男が人形の腕をつかんで前後に振りながら運ぶのを見て、母は目を丸くした。「女の子やったらお人形さんをあんなかわいそな持ち方はせんえ。ほんまの赤ちゃんみたいにちゃんと抱っこしたげるのに、男の子は違うなあ。」 彼男にとって人形は生き物でなく、単なるおもちゃだから、人形が痛がったり苦しがったりするとは考えず、一番持ちやすい合理的な方法で運ぶのだ。人形の腕は彼男が握るのに丁度よい太さだった。女だけのきょうだいで育ち、子供も女だけの母にとって、たまに会う孫息男を理解するのは難しかったようだ。

131:理科

 理科では、2年のときのテストで52点というひどい点を取ったことが忘れられない。低学年のテストは多くの子が100点に近い高得点を取る。成績優秀でない私もいつも90点台だったので、52点の答案を受け取ったときは点に無関心な私もさすがにショックを受けた。その後大学を卒業するまでに無数のテストを受けたが、こんなに悪い点を取った記憶はない。テストの内容は栄養についてで、体をつくるタンパク質を含む食品は次のどれかというような問題だった。授業で習った覚えがないので、私が学校を休んだ日に先生が教えたのではないかと思う。答案を母に見せると、母も驚いて、私と一緒に間違えた問題に取り組んだものの、子供時代勉強のできる子でなかった母は、私同様正答が分からなかった。「体をつくるのやったら、『ごはん』やろ」と、いい加減なことを言っていた。当時の社会は栄養より空腹を満たすことの方に関心が行き、『タンパク質』や『炭水化物』の言葉を知っている女性は一部の高学歴だけだったかも。結局分からないまま2年生を終了し、上の学年で3大栄養素を習って初めて理解した。