135:給食2

 アメリカ製小麦のコッペパンは食べることができた。でも残して持って帰るようにという母の指示があったので、ほとんど食べずに給食袋に入れた。私の食べ方がのろくて給食の時間内に食べ終わらないことを母は分かっていたのだ。何をするのも遅い私を心配して、母はクラス替えのたびに担任への提出書類に「動作がのろい」と書いていた。特に食べるのに時間がかかる。食べ物を飲み込まずに自然に食道に入るまでかみ続けるためである。私の息女も幼児期そうだった。離乳食を食べさせている最中に眠ってしまって、彼女の口の中に残っているかみさしの食べ物を指でかき出したことが何度もある。かみ続けているうちに疲れて寝入ってしまう。彼女は小学校高学年まで錠剤を飲むのも苦手だった。一緒に口に入れた水だけを飲んで、錠剤は喉に残っている。でも給食のパンを持ち帰ることはめったになかったから、私よりはマシだったのだろう。私は高校生になっても医師に飲み薬より注射を要望した。息男・夫・母は正反対で、かまずに流し込むように食べるので、食事がすこぶる速い。パンを残す私に小野先生がある日気付き、「全部食べなさい」と言った。言われた通り食べ始めると、給食の時間が終わっても、皆が下校の準備をし終わっても、まだ食べ終わらない。クラスの皆を散々待たせることになった。さすがに小野先生も、「あしたからは全部食べんでもええよ」と妥協した。
 2年か3年のときに、私のコッペパンからタイルが出てくる事件が起きた。パンの焼き釜の壁に貼られていたものなのか、パンの直径より少し短い対角線の大きさの正方形のタイルだった。パンだけはおいしく食べていたのに、この事件でしばらくの間パンも食べられなくなった。内気な私はタイルについて級友の誰にも話さなかった。担任にも多分報告しなかったと思う。報告しても当時は今ほど衛生観念が高くなく、責任の所在を追及するようなおおごとになることもなかっただろう。

134:給食1

 学校給食法が施行されたのは1954年(昭和29年)6月だそうだが、53年に私が入学したとき、K小学校はすでに給食を実施していた。戦後の食糧難対策として、都市部の小学校では早くから給食を始めていたようだ。ユニセフから脱脂粉乳の寄贈を受けたり、アメリカから補助金をもらったりしていたと聞く。アメリカ産小麦で作られたコッペパンを毎昼食べて育った私達は、アメリカの思うつぼにはまった。育児を通して日本人の米離れを引き起こしてしまい、毎年アメリカから大量の小麦を買う現状をもたらすこととなった。
 入学後少したって給食が始まると、通学時の持ち物はランドセルと草履袋(上履き入れ)に給食袋が加わった。草履袋は市販のものだが、給食袋は親の手作りである。プラスチック製の食器を入れて、長いひもを肩から斜めに掛ける。ちなみにランドセルには30㎝の竹製の物差しを立てて入れることになっていた。物差しの方がランドセルより長いのでふたからはみ出させておく。教科書やノートは時間割に合わせて毎日入れ替えるのに、なぜか物差しはいつも持っていかねばならない。
 多くの小学生にとって給食と体育が学校で最も楽しい時間だろう。私の息男もそうだった。でも私にとっては2大苦痛の時間だった。体を動かすことが嫌いな上に、運動能力ゼロで劣等感にさいなまれる体育。給食はまずくて食べられない。偏食の母の手料理に慣れた私の口は、食材も味付けも全く異なる給食を受け付けなかった。野菜嫌いの母が使う野菜は種類が限られていて、給食では見たこともない野菜が変な味に煮込まれている。おからもよく出た。安いタンパク源で重宝だったのだろう。肉は硬い鯨肉。牛肉中心の洋食っぽい料理が多い我が家と全然違う。脱脂粉乳もまずくて飲めない。今思うに、脱脂粉乳に添加されていた甘味料と生ぬるい温度が嫌だったのかも。おかずや脱脂粉乳がブリキのバケツに入っているのも食欲を減退させた。雑巾用のバケツを連想して気持ちが悪い。6年生のときに脱脂粉乳から牛乳に替わったが、瓶入りではなく、バケツからおたまじゃくしですくう方式のままだったので、顔をしかめながら飲んだ。家では大好きでがぶ飲みするのに。当時の給食は結構嫌いな子供も多く、私ほどの拒絶反応は珍しいとしても、おかずや脱脂粉乳を残す子が大勢いた。小学校を卒業して十数年後に小学校と中学校の教壇に立つ機会があり、給食に再会したら格段においしくなっていて驚いた。鯨肉は捕鯨問題が深刻化したせいか一度も出ない。毎回完食し、高校勤務時代と違って弁当を用意せずにすむことに感謝した。

133:誕生日

 電車に関してもう一つ。何の教科の時間か忘れたが、先生が12両の客車とそれを引っ張る機関車の絵を黒板いっぱいに大きく描いたことがある。前の客車から順に、『1月』、『2月』と、『12月』まで書いた。「自分のお誕生日の車両に、名前を入れましょう」と先生が言った。私は自分の誕生日がいつか知らなかった。クラスの皆も知らないだろうに、座席を立って黒板にどんどん書き入れていくのを見て、私も黒板に近づき、一番良さそうに感じる1月の車両に『なかざわきりこ』と書いた。黒板の記入を確認していた先生が、「キリコちゃん、違うでしょう! キリコちゃんは3月やないの!」 私以外に叱られた子はほとんどいないようで、皆私のように適当に書いたのではなく、自分の誕生日を覚えていることに驚いた。
 小野先生から教わって、3月21日だとこのときしっかり覚えた。春分の日で国民の祝日であることもまもなく知った。当時はどの家も祝日に旗を門に掲げたので、『旗日[はたび]』ともいう。天皇誕生日と同等に国旗を掲揚する日なのだ! 春分の日は昼と夜の長さが同じ日だから年によって日が異なり、最近は3月20日のことも多いが、12歳の1959年(昭和34年)まではいつも21日だった。以後も91年(平成3年)までうるう年以外は21日だった。春分の日は日本だけの出来事ではない。世界中で昼と夜の長さが同じになるのだ! 私は自分の誕生日に根拠のない誇りを持ち、高校1年生のときクラス回覧のノートに、「私の好きな季節は春です。生の躍動を感じる春の中でも真っ盛りの日は春分の日です。私はその春分の日に生まれました」というような内容のナルシシスティックな文を書いたくらいである。年齢に2種類あることも知った。誕生日に年を取る満年齢と、正月に年を取る数え年。1月~4月1日生まれは同学年の4月2日~12月生まれより数え年が1年下であることなど、たちまち同級生より詳しくなった。

132:社会

 社会の授業では、教室で大恥をかいたことがある。「電車と自動車は、どっちの方が速いですか?」と小野先生が皆に質問して、私は手を挙げていないのに私を指名した。教室で発言するのが恥ずかしく、答えが分かっても滅多に手を挙げない子供だったから、私に発言の機会を与えようとしてくれたのだろうが、乗り物にも速さにも興味のない私は、どっちが速いか見当もつかない。とにかく答えなくてはいけないと思って、「自動車」と言った途端に男の子達から「ええ!」と非難の嵐が起きた。先生が、「自動車かて思い切り走ったら速いねんよ」とその場を収めてくれた。私は恥ずかしくて固まってしまった。
 女児と男児で乗り物に対する関心度が全く違うことを、息男が生まれて初めて知った。幼児期の息男は盆のような円い物を見つけるとすぐに自動車のハンドルに見立て、左右に回して運転し始める。ブロックで作る物もほとんど乗り物だ。2歳のときにおもちゃの電車とレール一式を私の母からもらって大喜びした。性にとらわれずに可能性を広げたいと考える私は息男に人形も買い与えたが、さっぱり興味を示さなかった。彼男が人形の腕をつかんで前後に振りながら運ぶのを見て、母は目を丸くした。「女の子やったらお人形さんをあんなかわいそな持ち方はせんえ。ほんまの赤ちゃんみたいにちゃんと抱っこしたげるのに、男の子は違うなあ。」 彼男にとって人形は生き物でなく、単なるおもちゃだから、人形が痛がったり苦しがったりするとは考えず、一番持ちやすい合理的な方法で運ぶのだ。人形の腕は彼男が握るのに丁度よい太さだった。女だけのきょうだいで育ち、子供も女だけの母にとって、たまに会う孫息男を理解するのは難しかったようだ。

131:理科

 理科では、2年のときのテストで52点というひどい点を取ったことが忘れられない。低学年のテストは多くの子が100点に近い高得点を取る。成績優秀でない私もいつも90点台だったので、52点の答案を受け取ったときは点に無関心な私もさすがにショックを受けた。その後大学を卒業するまでに無数のテストを受けたが、こんなに悪い点を取った記憶はない。テストの内容は栄養についてで、体をつくるタンパク質を含む食品は次のどれかというような問題だった。授業で習った覚えがないので、私が学校を休んだ日に先生が教えたのではないかと思う。答案を母に見せると、母も驚いて、私と一緒に間違えた問題に取り組んだものの、子供時代勉強のできる子でなかった母は、私同様正答が分からなかった。「体をつくるのやったら、『ごはん』やろ」と、いい加減なことを言っていた。当時の社会は栄養より空腹を満たすことの方に関心が行き、『タンパク質』や『炭水化物』の言葉を知っている女性は一部の高学歴だけだったかも。結局分からないまま2年生を終了し、上の学年で3大栄養素を習って初めて理解した。

130:算数

 算数の授業は、『1』から始まった。次の時間は『2』で、教科書に箸や靴下などの絵が書かれていたように記憶する。次の時間は『3』と、毎時間1つの数について勉強するのは楽しかった。『10』まで進んだとき、次回は『11』だと期待したら、『10』で突然終わってしまい、以後は2桁の数がいきなりいろいろ出てきて面食らった。でも数に興味のある私は以後も授業を面白く受けることができた。助数詞を習ったときだけは苦痛だった。うさぎを『羽』と鳥のように数えると知って驚いた。『匹』と『頭』の区別も難しいし、タンスは『さお』だそう。これらの助数詞を覚えなくてはいけないのかと思って嫌になった。

129:ひび割れ

 鈴木さんといえば、いまだに後ろめたく思っていることがある。2年生のとき、教室で休み時間に鈴木さんの唇が乾燥してひび割れ、出血した。前の席にいた私は、「なめてたら血が止まるで」と助言した。周囲の子供達も「そうや。なめてよし」と言ったので、自分の助言の正確度に自信のなかった私はほっとした。傷口をなめて唾液で消毒する光景をいつか見たのを思い出して、思わず口をついて出た。次の授業中ずっと鈴木さんは舌でぺろぺろ唇をなめ続けていた。不安な私は帰宅するや母に真偽を確かめた。母は、「唇をなめたりしたらよけい乾いて、ひびがひどなるえ。」 私は鈴木さんに間違ったことを教えてしまった! 翌日彼女に謝ろうと思ったが、言い出す機会を逸した。その後も改まって謝罪する勇気が出ないうちに何ヵ月もたってしまい、進級時にクラス替えがあって、以後彼女と疎遠になってしまった。 人見知りの私は気後れして、その場で言うべきこと、すべきことをできなくなるときがしょっちゅうある。あのとき勇気を出して実行していれば相手に悪い印象を与えずにすんだのにと散々悔やみながら、次の機会が来てもみすみす棒に振り、後悔を繰り返す。

128:宿題

 先生が国語の宿題を出して、「『あ』で始まる言葉を20個ノートに書いてきなさい」と言ったときは、いつも鈴木さんの家に数人で集まる。皆で『あ』の付く言葉を言い合ってノートに書く。自宅で一人で20個も考え出すのはたいへんだ。鈴木さんの家なら、誰も思い付かなくなった時点で鈴木さんの兄が本を見ながら助け船を出してくれる。その本は『あ』でも『い』でも、小野先生が気まぐれ(?)に決めるどの音節から始まる言葉でもお茶の子さいさい、すぐに見つけてくれるのだ。お兄さんが持っていた魔法の本は国語辞典だと後に分かった。

127:詩

 国語の授業で他に覚えているのは、先生が私の詩を教室で読み上げ、褒めてくれてうれしかったこと。普段褒められるようなことをしない引っ込み思案の私だから。『あかちゃんのつめ』という題の詩で、隣の家の赤ちゃんが母親に爪を切ってもらっている様子を書いた。我が家の飼い犬のクロを肥溜めから救い出してくれた隣家は、私が小学校に入学した頃に転出した。替わって若夫婦が入居し、すぐに赤ちゃんが生まれた。赤ちゃんに興味津々の私は、近所の子供達を引き連れてよく隣家を訪問した。『あかちゃんのつめ』は私の処女作だが、これが私にとって生涯の最高傑作だったようで、以後私の作った詩を褒めた先生はいない。私は詩に対して苦手意識を持ち続けながら学校教育を終えた。

126:国語

 小野先生の授業で記憶に残っているのは、国語の最初の数時間、自分の名前をひらがなでひたすらノートに書かされたこと。『なかざわきりこ』を繰り返して書く作業にうんざりした。隣席の西本君を見ると、『にしもとよしかず』とまじめに書き続けているので、私も名前書きを再開するしかない。左利きの堀内君を叱る先生の声がしばしば聞こえた。堀内君が鉛筆を左手で持つたびに先生が注意する。現在では矯正を強いるべきでないとされるが、当時は右利きに直す教育が当たり前だったようだ。右利き用に作られた道具が多いので、左手しか使えないと不便だし、箸を左手に持つと行儀が悪いと考える人もいる。ストレスのない範囲で右手を使う練習をさせて、両手が使えるようになれば、右利き以上に便利だろう。本来は左利きで両手とも自在の友人達を羨ましく思う私は、息男の誕生後、右利きの彼男の左手にスプーンを渡すように心掛けたが、すぐに右手に持ち替えてしまって、両手使いに育てることはかなわなかった。

125:両立

 小野先生が普通のおばさんに見えて、ショックを受けたのは、3年生のとき。ゼロ歳の息女をおぶって、大きな荷物を持って、必死の形相で駅の構内を歩いている先生に出会った。彼女は妊娠のため、私達の担任を2年生までで降りていて、私は3年生に進級後彼女を一度も見掛けなかった。それが突然、髪を振り乱した彼女に遭遇してびっくりした。『先生』は、一段高い所から私達を見下ろし、いつも余裕の表情でいるというイメージを持っていた私は、育児に追われている近所のおばさん達と変わらない姿に幻滅を覚えてしまった。小野先生は育児と仕事の両立に頑張って一生懸命生きていたのに! 彼女の姿が20年後の自分と重なることにも、当時の私は思い及ばなかった。

124:切符

 入学後数カ月たった頃、母が小野先生に、「キリコは小柄で小学生に見えへんさかい、電車の切符を買わんでも乗れんねん」と笑いながら言うのを横で聞いていて、私は慌てた。先生は正義の権化なのに、そんな不正行為を先生に暴露するなんて! しかし意外にも先生は母を批判することなく、ほほえみ返すだけだった。母は先生に丁寧語も使わない。誰とでもすぐに親しくなる母は、教師と保護者の関係もたちまち超えてしまう。大阪の大宝幼稚園のS先生とも気安く話していた。K幼稚園は在園期間が短くて先生達と懇意になる前に卒園したので、母の助太刀のない私は先生の目を自分に向けることができなかった。社交的な母は人見知りの強い私と大違いだ。私も年齢とともに自信が育ち、引っ込み思案から抜け出したが、母のように外向的な性格にはならず、今も孤独な時間を好む。

123:プリント

 入学式の翌日だったと思うが、小野先生が保護者宛てのプリントを配付しながら、「『おんがく』の教科書を出しなさい」と私達に命じた。《今から音楽の勉強するのやないのに、なんで?》と思いながら、『おんがく』と書かれた教科書を机の上に置くと、「教科書を開きなさい。このお手紙を挟んだら閉じなさい。できましたか? 教科書を仕舞いなさい。」 なぜプリントを音楽の教科書に挟むのか私は理解できなかったが、先生の言葉は絶対だと思っているので、その通りにした。周囲の児童も皆先生の指示に従った。帰宅後、教科書に挟んだプリントを勝手に取り出してよいものかしばし悩んだ。《お母さんに見せるようにて言わはらへんかったけど、教科書に挟んだままにしといたら、お母ちゃんがお手紙を読めへんし》とうだうだ考えた挙げ句、重大決断をし、プリントを教科書から抜いて母に渡した。先生は一般の大人と偉う特別な存在だと思っているので、先生の指示に反することはできないのだ。

122:二宮金次郎

 K小学校の校舎は木造である。外壁は横板を鉛直に並べた下見張りになっている。校舎の東に二宮金次郎の銅像がある。薪を背負って本を読みながら歩いている金次郎少男(少年)の像は、当時多くの小学校に設置されていた。
 私は1年1組で、担任は小野先生。小野先生は1年前に教師になったばかりで、1年生5学級の担任の中で一番若いようだ。低学年の担任は全員女の先生である。3年生から男の先生が増えていく。
 当時の小学校の机は二人共用だった。隣の子が机をガタガタ揺するともろに迷惑を被る。机の中央に境界線が彫ってある。前に机を使用した児童が、お互いの領域を確認し、手や文房具が隣の領域にはみ出さないようにと彫ったのだ。天板の下の棚には仕切りがあるので、隣の子の物と交じることはない。一人用の机になったのは中学校からである。私の子供達は小学校から一人用の机だった。椅子も、座面が少しくぼんで座り心地がよくなっていたが、私の頃の椅子の座面は合板でなく、細長い板を横に数枚並べて上から釘を打ち付けた代物。座り心地が悪いので各自で座布団を用意した。

121:フロイト

 おちんちんを前にぶら下げていて邪魔にならないのかと、私は子供の頃から疑問だった。《鉄棒をするときとか自転車に乗るとき、おちんちんが鉄棒やサドルに当たらへんのやろか? わたしにはあんな鬱陶しいもんのうてよかった》と思っていたから、フロイトのペニス羨望論は間違っている。男性にとってペニスは大切な物らしく、『息子』と呼んだりしていとおしんでいるようで、男性のフロイトもペニスを重視して精神分析理論を打ち立てたのだろうが、女性は性器にさほど強い関心を持たずに育つ。富と名誉を得た男性が女性との不祥事で身を滅ぼすのを多数見ていると、性欲に翻弄される男性のさがを哀れに感じる。男性のために大金を横領したり国家機密を漏らしたりする女性がいるが、彼女達は単なる性欲でなく、彼氏のためなら社会などどうでもよくなるのだと思う。子供のために自分を犠牲にする母性本能と同じ行動パターンかもしれない。

120:おちんちん

 私が男の子を羨ましいと感じた点を強いて挙げるなら、戸外で排尿するときにパンツを下ろさずにすみ、ズボンの社会の窓からおちんちんを出すだけでよいこと。衆目にさらされながらパンツを下げて尻を出すのは少し恥ずかしい。大人になってからも、入院中にベッドの上で用を足さねばならないとき、看護師に便器を尻の下に差し込んでもらって恐縮する。男性なら看護師の手を煩わさずに自分でシビンを使えるだろう。小用後にちり紙がいらないのも羨ましい。おちんちんは水切れがよくて、振るだけでいいらしい。
 しかしおちんちんは、便器の周囲に尿をこぼすという重大な欠点がある! 和式の水洗トイレは便器が浅いので、女性でも尿がはねて便器の周りを汚してしまうが、男性は洋式トイレも汚す。女性と同様便座に座って小用を足す男性が最近多くなってきたと聞く。夫は我が家が洋式トイレになった36年前から実行している先駆者の一人である。私が強要したのではない。床を汚さない工夫を独自に積み上げて行き着いたらしい。座っていてもこぼれることがあると彼男は言う。床のビニールシートが黄ばみ、拭いても落ちなくて困る。おちんちんは便利どころか欠陥品だ。

119:男女同権

 小学校で、『男女同権』という言葉が流行した。男子が身勝手なことを言うと、女子が「男女同権やで」と言い返す。戦後の新憲法によって初めて保障された女性の権利なので、それまで制約の多い生活を送ってきた日本の女性は『男女同権』をよく口にし、それを子供達もまねていたのだろう。小学生の私自身は性差別に鈍感で、女に生まれて損したと思うことはなかった。男の子は考えが幼稚で、口できちんと主張できずにすぐに暴力を振るうし、絶えず体を動かしていて落ち着かない。《『女子供』とゆう言葉だけあって、『男子供』がないのはなんでやろ?》 精神年齢の低い男子こそ、小さな子供と一緒の範疇に入れるのがふさわしいと思った。女子の集団に入って遊ぶのも苦手だが、男子の集団に入って走り回っているなんて真っ平。それに運動能力の劣る私はいじめの標的になるにちがいない。本当に女でよかった。
 私と違って、男子に交じって野球やサッカーをやりたい活発な女の子は、仲間に入れてもらえず悔しかっただろう。「女のくせにお転婆やな。おしとやかに女らしくしていなさい」といつも女らしさを強要されている子も不満を感じていただろう。男児には教育熱心な家庭でも、女児は勉強より家事手伝いを優先させる親が当時は多く、勉強中の息女に容赦なく、何を急いで買ってきてとか、夕飯の支度を手伝えとか命じる。
 私の母は私とマイコに上から命令するタイプではなく、それに男のきょうだいがいないので女男の待遇の違いを感じずに育つことができた。母が家事を独りでこなして、私とマイコは好き放題に過ごしているのを見兼ねた父が、中学生の頃に夕食後の食器洗いを私とマイコの担当にした。もし兄か弟がいたら、父は彼男にも食器洗いを担当させただろうか? 食器洗いは他の家事と違って頭を使わず、機械的にできるので、家事に興味のない私も勝手な空想にふけりながら手だけ動かして、結構楽しい時間を過ごせる。四郎叔父の家に行くと、妻の春江叔母に、「キリちゃんはお尻が重たいなあ」とよくなじられた。私よりずっとこまめなマイコを、「マイちゃんはよう気が利く」と春江は褒めるが、私の両親は気が利くことをあまり評価しなかったから、私は自分も気が利く子になろうという気持ちにならなかった。

77-4:マツタケ狩り

 父の会社の遠足に一度だけ参加したことがある。遠足は年に1回くらいあったのか、泊まり掛けの旅行に母がついていったときの写真がアルバムに貼られている。両親が旅行するときは祖母を京都から呼び出し、私とマイコの世話を頼む。私が唯一参加した遠足はマツタケ狩りだった。家族4人で山の中を歩き回ってマツタケを採った。楽しかったが、酔っ払って大声を上げている男性にときどき出くわし、怖かったことも思い出す。
 当時は駅のホームにも酔って寝転んだり奇声を発したりする男性が普通にいた。人前で煙草を吸い、吸い殻を床や地面に捨てる男性は多数いた。彼男らの傍若無人振りに比べれば、今の若い女性が電車内など公衆の面前で化粧する振る舞いなんて、全く非難に値しないと思う。周囲に迷惑をかけていない。私は編み物をしている乗客の方が怖い。電車の急停車の際に編み針が飛んで他の乗客に突き刺さるかもしれないから。
 今の若者をマナーがなっていないとけなす人達へ。酒・煙草以外でも、空になった缶ジュースやガムのポイ捨てなど、半世紀前の方がひどかったと思いませんか? 電車内を走り回る子供達もいたし、マナーの総合点は、私の子供の頃より今の方が上だと私は評価します。
 マツタケを採った後の食事は、マツタケ尽くしだった。鍋、土瓶蒸し、焼き物、天ぷら、炊き込み御飯、……。マツタケの好きな私もうんざりした。今思えば、なんとぜいたくな! すっかり高級食品になってしまったマツタケを、私は結婚後一度も買ったことがない。マツタケが高嶺の花になるなんて、子供の頃は想像もしなかった。

77-3:ウエーブコースター

 兵庫県時代の父との外出で強く記憶に残っているのは、宝塚の『ウエーブコースター』に乗ったこと。『ウエーブコースター』は1952年にできた日本初のジェットコースターである。どんな遊具か興味を持った父が、私とマイコを出しに使って連れていったのだろうと憶測する。父は前の座席に座っている私とマイコが吹き飛ばされないように、2人のスカートをつかんでいたそうだ。怖がりの私は生きた心地がしなかった。もう金輪際乗りたくないと思っていたのに、10年後の高校生のときに東京の後楽園のジェットコースターに乗る羽目になり、そのときはもっと怖い思いをした。以後様々な絶叫マシーンが現れたが、私は見る気にもならない。
 大阪の通天閣が1956年に再建された翌年、母も一緒に家族4人で上った。東京に転居することが決まって、父は関西の土産話にと思って行く気になったのかも。『通天閣、高い。高いは……』と、学校の友達とのしりとりゲームで『通天閣』を自分でもよく口にする。その通天閣の実物を見ることができ、展望台にも上れてうれしかった。2年後には東京タワーに上ることになるのだが、当時の私は東京タワーが建設中だと知らなかった。

77-2:来客

 日曜日は父にとって1週間の睡眠不足を補う日だから、家族で外出することは滅多にない。来客も親戚以外にまずなかったが、囲碁好きの会社の部下だけは月に1回くらいの頻度で、父に囲碁の指導を受けに来る。彼男に慕われて父はよい気分らしく、鬱陶しがらずにいつも機嫌よく『愛弟子』の彼男の相手をしていた。
 他に我が家を訪れた数少ない会社の同僚の中で印象に残っているのは、4人家族全員でやってきた一家である。私とマイコも訪問客の2人の子供と楽しいひとときを過ごした。彼らの来訪から程なくして、妻が破傷風で亡くなったと父から聞いて驚いた。あんなに仲むつまじく幸せそうな家族だったのにと気の毒で仕方がなかった。それから何カ月か後に同僚が再婚したと聞いたとき、私はさらに驚いた。仲良し妻夫に見えたのに、妻の死後数カ月で新しい妻を迎えるとはなんて薄情な男だろうと、当時の私はあきれてしまった。今思うに、当時の男性は家事ができないからシングルファーザーの生活は不便で、すぐに周囲が見合いを勧める風潮だったようだ。後妻になった女性と子供達は幸せな家庭を築けただろうか?